信繁(幸村)は、武田氏滅亡後、父昌幸(まさゆき)が越後(新潟県)の上杉景勝に属した時、人質として春日山城(新潟県上越市)に行き、その後、昌幸が豊臣秀吉に属した時には大阪城へ行っている。この人質時代に、上杉軍法・豊臣軍法を見につけたと思われる。
もっとも初陣は意外に遅く、天正18年(1590年)の秀吉による北条氏の小田原城攻めの時で24歳であった。支城である上野(こうずけ)(群馬県)の松井田城、箕輪城攻めで軍功をあげる。
松井田城…北条家家臣、大道寺政繁時代に築城された西側部分と、それ以前の安中氏の築いた東側の安中郭部分とに分かれる。どちらも自然地形を最大限に活用した山城であるため、大手門跡などを除くと石垣などの構造物はない。また天守閣などもともと存在していない。数多くの「堀」が見所である。
コメント…市役所(安中市松井田支所)で、松井田城跡を確認し現場へ向かう。
松井田の市街地の北に位置する山に城跡があり、麓には国道18号線が通っている。案内板は設置されているが、木々が生い茂り本丸への道には倒木を数箇所確認する。散策コースは荒れていた。

城跡からの眺望 本丸跡への散策路 堀切り跡 本丸跡
箕輪城…榛名白川によって削られた河岸段丘に、梯郭式に曲輪が配された平山城である。
城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成。
永正9年(1512年)戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業(なり)尚(ひさ)によって築かれた。信繁初陣時は、北条氏(北条氏邦(うじくに)など)の居城。
コメント…箕輪城跡は、市民憩いの公園になっていた。良く手入れの行き届いた公演であるが、訪れた日が平日であった為、園内は人影がまばらであった。
公園(箕輪城跡)入口 箕輪城跡の碑 本丸跡の碑 公園内の様子
信繁の誕生秘話…真田といえば信濃国(長野県)上田を思い浮かべるが、信繁(幼名:弁(べん)丸(まる)、源(げん)次郎(じろう))の生まれについては上田ではなく、信繁と兄の信(のぶ)幸(ゆき)が生まれた時、父・昌幸は仕えていた武田信玄の縁戚・武藤氏(信玄生母大井氏の一族)に養子入り、武藤喜兵衛尉昌幸と名乗っていた時期がある。そこから考えると信繁は、昌幸が一時期居住した山梨県(甲斐国)南アルプス市荊原・落合付近で生まれた可能性大である。
信繁の名前は、武田の副将にして信玄の弟、武田典(てん)厩(きゅう)信繁から頂く。
後世、「まことの武将」と称えられた典厩は、第四次川中島合戦(永禄四年・1561年)で自ら上杉軍への盾となり、信玄を守って討死。その合戦が初陣であった父・昌幸は、命を捨てて兄のために働いた典厩の姿に、武将としての理想像を見出し、その生き方に肖(あやか)る意味で、己の次男に信繁と名付けたのではないかといわれている。
ちなみに真田信繁の誕生は、典厩の死から六年後の永禄十年(1567年)のことである。(異説あり)
(四方山話)
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣にあたり、信繁(幸村)は豊臣秀頼の要請を受け、
諸方に散らばっていた元家臣を集め、手勢130人ほどで大坂城に入城した。このとき、
大阪城に入った元大名級の武将は、信繁のほかには長宗我部盛親・毛利勝永がいるくら
いで、この3人は「三人衆」とよばれた。
しかし、軍師として迎えられたはずの信繁だったが、それに相応(ふさわ)しい地位は与えられず、
大坂城中で実権を握っていた大野治長らの主導により、信繁らの出撃論は否定され、篭
城と決まった。信繁は、篭城戦となった時、一番危ないのは惣(そう)構(がま)えの南側だとみて、そ
こに出丸を築き、自ら守りについた。それが真田丸であり、冬の陣で最大の激戦となっ
た場所で、しかも守りぬいているのである。
結局、力攻めでは落とせないと判断した徳川家康が講和をもちかけ、冬の陣は終わった。
しかし、家康は堀を埋めた上で、翌年再び大坂城に攻め寄せた。この夏の陣で信繁は篭
城しても勝ち目はないとみて、積極的に城外へ打ってでる策をとり、実際、信繁は家康
本陣に肉薄している。
結果的には、そこで壮絶な最期を遂げることになるが、寡兵(かへい)で大軍にあたっていくいか
にも戦国武将らしい生き方は多くの人を魅了し、徳川方の薩摩(鹿児島県)の大名島津
家久は真田勢の戦いぶりを賞賛して、国元への手紙に「真田、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの) 古(いにしえ)よりの
物語にも、これなき由(よし)」と記すほどだった。真田は、兄信之が家を残し、信繁が名を残
したのである。 髙 橋