雨宮敬次郎(※あめのみやけいじろう・あめみやけいじろう)
弘化3年9月5日(1846年10月24日)~明治44年(1911年)1月20日は
日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。
結束して商売にあたった甲州商人。いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人である。
〈 来 歴 〉
雨宮家は、甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)の長百姓の家系で、敬次郎は次男として生まれる。少年時代から季節商いなどに従事し、成年になるまでに一財産築く。1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜へ転居し、生糸相場・洋銀相場で失敗。1876年(明治9年)から1877年(明治10年)にかけてアメリカとヨーロッパの国々を外遊し、発展段階にある近代国家が投資すべき産業は、鉄道・製鉄・水道等の社会基盤の分野だと見極める。
1879年(明治12年)に東京深川(当時の東京府南葛飾郡八郎衛門新田。現在の東京都江東区扇橋)で興した蒸気力による製粉工場が成功。
1883年(明治16年)に軽井沢の開発事業を行う。この時の開墾地は、現在でも長野県北佐久郡軽井沢町に雨宮新田という地名として残っている。
1884年(明治17年)に相場取引を止め東京に移住。この頃、製粉工場は発展し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受け、翌1887年(明治20年)には、主に軍用小麦粉製造を目的とする「有限責任日本製粉会社」へと改称した。この会社は、1896年(明治29年)9月に「日本製粉株式会社」となり、現在は、日本の代表的な製粉会社となっている。
1888年(明治21年)に、中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にも就任している。
1891年(明治24年)には、川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となる。同年、第一回藍綬褒章を受賞。1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興し、当時の東京市に水道用鉄管を納品した。しかし、1894年(明治27年)には納期遅延問題が生じ、敬次郎も刑事告訴されるに至っている。
1893年(明治26年)に北海道炭礦鉄道の取締役に就任、大師電気鉄道(現在の京急大師線)の発起人になる。1894年(明治27年)に豆相人車鉄道を敷設、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)を開発。1903年(明治36年)に東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)の理事長になる。同年東京市街鉄道の会長に就任。1904年(明治37年)に桂川電力を興す。1905(明治38年)江ノ島電鉄社長に就任。1908年(明治41年)に大日本軌道を設立。広浜鉄道等を敷設。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍する。
1911年(明治44年)に64歳で永眠。婿養子に事業を引き継いだ雨宮亘がいる。歌人の雨宮雅子は、敬次郎の孫にあたる。
〈 逸 話 〉
○※戸籍上での「雨宮」の読み方は「あめみや」であるが、「雨宮」姓が山梨県には広く存在していたため、晩年には「あめのみや」と読ませるようになったといわれている。
○生誕地牛奥(現・甲州市)の重川に架かる橋梁は、敬次郎の功績を称え雨敬橋(あめけいはし)と名付けられている。
○中央本線が、甲州市で塩山駅方面に向けて北側に湾曲しているのは、1903年(明治36年)の開通時に敬次郎の政治力により、出身地へ線路を通したためとの説がある。

〈 撮影後記 〉
投機界の魔王と言われた「雨宮敬次郎の生家跡」を尋ねる目的で、牛奥にやってきた。
事前に分かっていたのは、「甲州市塩山牛奥」という簡単な住所のみである。
毎回、番地不明の住所しか分からず、場合によっては明治時代の古い住所を頼りに尋ね廻るのであるが、直ぐに見つかる場合と、当然のこととして大変苦労する場合とがある。
しかし、救いだったことは私が尋ねた方々は皆さん快く応対して下さったこと。
感謝 感謝……。
今日も、今朝から小雨の中、牛奥地区を車窓から注意深く辺りの様子を伺いながら外を覗く。
ゆっくり車を進ませると、突然目に飛び込んできた立看板の文字。
んっ?……。
そこには、『雨敬園』と書いてあるではないか。 もしや…と思いつつ門を潜る。
玄関で声をかけ、奥から出てきた家の方にお邪魔した目的を説明する。
すると、あっさり「ここの家ですよ。」とのこと。
今回は直ぐにみつかりホッとする。
ご主人から話を伺う。
雨宮敬次郎氏とは、親戚筋にあたるとのこと。
〔親戚の方が、雨宮敬次郎氏屋敷跡に住み、敷地(財産)をまもっていらっしゃるのである。〕
家の周りの敷地が観光農園になっていて、「敷地五反歩(1,500坪)にブドウを作って、山にはさくらんぼも作っている。」とのことであった。
写真を数枚とって礼を述べ、早々にこの場を去ることにする。
そして肌寒い小雨の中で、ご主人は私が見えなくなるまで見送って下さった。
髙 橋