木喰上人(もくじきしょうにん)1718(享保3)年~1810(文化7)年
山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑、伊藤六兵衛の次男として生まれる。
14歳(享保16)で丸畑を出奔(しゅっぽん ※家出)し、江戸に赴く。奉公に励むも度々浪人する。
江戸でなかなか志を達成できず、22歳(元文4)で相模国(神奈川県)の大山不動尊に参詣。古儀真言宗の大徳に道を説かれ、この地で出家し以来23年間修行に励む。
45歳(宝暦12)のとき日本廻国修行を発心。常陸国(茨城県)の羅漢寺住職、木食観海上人より「木食戒」を受け、「三界無庵無佛 木食行道」と名を改める。
53歳(明和7)12月、父六兵衛郷里丸畑で没す。
56歳(安永2)2月18日に神奈川県伊勢原市より廻国に出立。各地の名山社寺に参詣。坂東・秩父を巡り関東一円を巡る。
58歳(安永4)5月、母郷里没す。12月師の木食観海上人羅漢寺に遷化。
60歳(安永6)東北に向かう。
61歳(安永7)6月中旬、弟子白道を伴って北海道に渡る。白道と共に作仏を始め、二十余体のこす。
63歳(安永9)5月14日、蝦夷地(北海道)江刺を去る。「南無阿弥陀仏国々御宿帳」を書き始める。栃木県栃窪に薬師堂を建立し、本尊・二脇士・十二神将像を彫刻、弟子白道の署名もみられる。
64歳(安永10、天明元年)2月21日に栃窪を立ち、信州(長野県)長久保で白道と別れる。閏5月23日佐渡の小木に上陸。以後4年逗留し、各所に御堂再興、仏像と書軸をのこす。
65歳(天明2)12月18日、最初の歌集「集堂帳」を編む。
68歳(天明5)梅津に九品堂を建立。この頃が天明の大飢饉。弟子の丹海に守らせ、5月15日佐渡を去る。9月12日帰郷し、2週間後再び廻国に向かう。
69歳(天明6)中部から東海、北陸、近畿地方をめぐる。
70歳(天明7)5月15日、中国より四国に渡り、八十八霊場の札所をめぐる。
71歳(天明8)船で九州大分に上陸し、日向の国分寺に納経求められて住職になる。
74歳(寛政3)正月23日に国分寺炎上。再建のため浄財の托鉢に廻る。
77歳(寛政6)春に国分寺伽藍再興。本尊五智如来完成。この頃より「天一自在法門 木喰五行菩薩」と名を改める。
78歳(寛政7)日向国分寺を立ち、鹿児島・熊本を経て長崎に入り見聞をひろめ、作をのこす。
79歳(寛政8)正月に「青表紙和歌集」を編む。年末に日向国分寺に戻る。
80歳(寛政9)4月8日、国分寺より再び廻国修行に出立。九州の地を離れ、6月には山口県下に入り各地で作像。
81歳(寛政10)山陰・山陽を巡り各地に多くの作を残す。
82歳(寛政11)4月1日周防三田尻より四国に渡り再び巡礼。10月2日に大阪に着き、11月愛知県新城より静岡県引佐郡狩宿の森下家に入り越年。
83歳(寛政12)虫生の湯で歌集「心願」を編むほか、静岡県下に五十余体を作像している。10月に丸畑に入り、ここに二十七年間の日本廻国を果した。
84歳(寛政13、享和元年)故郷の永寿庵に五智如来像、山の神社に山神像を奉納。四国八十八霊場の本尊彫刻。
85歳(享和2年)四国堂竣成。2月に開眼法会、「四国堂心願鏡」を書く。再び旅に出る。長野~群馬を経て、三国峠を越え新潟県下に入り造像をはじめる。86歳(享和3年)「心願歌集」「木喰浮世風流和賛」なる。二ヵ年にわたり各地に二百四十余体にのぼる作像をのこす。一千体仏像達成めざす。
88歳(文化2年)正月米寿を祝い、木版画刷りを各地に配布。
89歳(文化3年)12月8日未明、丹波の清源寺で十六羅漢作像中の霊夢に阿弥陀三尊が現れ、「神通光明明満仙人」と改名。佐渡の弟子丹海11月没。
90歳(文化4年)正月自刻像の背銘に「日本二千ノ内ナリ」と書き、兵庫県下に三十余体彫刻。下諏訪の慈雲寺に現れ阿弥陀如来像を造る。
91歳(文化5年)3月甲府善光寺に大幅の書軸を描き、4月に教安寺に七観音像を彫刻し奉納。その後の足取り不明。
93歳(文化7年)生家丸畑に届いた笈箱の中に、多くの自筆記録があり、一枚の紙位牌に「円寂 木喰五行明満聖人品位 文化七庚午年六月初五日」とある。終焉の地は不明。
〔※木喰(もくじき)とは、仏教の戒律のことである。火を使う肉や穀類を一切口にせず、木や草を食べて修行をする戒律で、それを実践した僧を木喰僧という。〕



〈撮影後記〉
45歳のとき木食観海上人から木喰戒を受け、56歳から日本国中を廻る自己追及の厳しい旅を始める。そしてその旅は、37年の歳月をかけ、北海道から九州鹿児島まで2万キロもの長い旅になり、入寂する93歳まで続くのである。
旅の間、仏像を作り、あるときは薬を作りながら世の人を救い、自らを究めていったのである。しかし、宗派も寺も持たなかったがゆえに木喰上人の作った全国の木造と業績は、1世紀あまり歴史に埋もれ、人々から忘れ去られてしまっていた。明治時代になって柳宗悦により見出され、世に「微笑仏」として知られるようになる。
木喰像は、みな深い笑みをたたえている。 何故だろう?…。
庶民が厳しい生活の中で、深い悲しみや苦しみを乗り越え、生きていくための力を与えているのだろうか…。
今となっては知る由もない。
髙 橋